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「神田軒ってこんな店」簡単に説明すっぺ~

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前の画像
すでに初代、二代目とこの世には居りませんから 子供の頃に聞いた事など
思い出しながら・・いい加減な事も有るかも?・・記して行きましょう。

大正12年ごろまで初代店主は

群馬県桐生で織物工場の工場長をしておりましたが何を思ったのか福島に来て 

屋台ラーメンの元締めに弟子入りました。

 

その屋号が「マルイチ神田軒」でありました。



翌年、小さいながら陣場町に店舗を構え昼は店舗営業、

夜は屋台営業をしていたそうです。

転居を重ね 昭和2年ごろに現在の宮下町に落ち着いたのです。

福島市の条例で屋台営業が出来なくなり

(ちなみに日本で最初、東京は今でも出来ます)

屋台ラーメンの元締めは解散しました。その折、正式な「マルイチ神田軒」の

屋号を頂きました。

(五月町の「神田軒」は弟弟子でありまして先に亡くなられた旦那のお兄さんが

 五月町の初代です)



戦後横浜に働いていた父(二代目)が帰福ししばらくは他所で働いていましたが

その後店を継いだようです。

(当然私こと三代目は まだこの世には出てきておりません)

勉強熱心な二代目はラーメン類のみのメニューから

蕎麦をはじめ様々なメニューを取り入れ 当時福島では全く知られていなかった

冷やしラーメンやアンカケ焼ソバ等をいち早く取り入れました。

(恐らく福島県内でも無かったのではないでしょうか?)



いよいよ三代目の登場です!

昭和31年6月に生を受け(本当は8月が予定日だったらしい)

父の話では「湯のみぐらいの頭しかなかった」と 言っていたが・・

虚弱体質?で真綿に包むように祖父母に育てられました。

(今はマッタク信じられないぐらいでしょうがね!)

第四小、第四中、福島商業と古関 裕而先生の校歌で育ちました。

(中学と商業の校歌はよ~く似ているのだよ)

ちなみに商業では応援団長をしてました。

ず~~っとその事を引きずって行かなければ成らないとはその時は

知りませんでした。

卒業後大学進学と料理修行の「どっちにするか」しばらく悩みましたが

料理の修業を選択(大学の4年間がもったいなかった)

東京へ 修行の旅に出かけたのでした。

最初は北京料理の店でしたが2年後四川料理に出会い現在に至っております。

(四川料理の素晴らしさはいずれ紹介します。)

昭和55年長男(四代目候補)が誕生。



現在は当店で一緒に働いております。

(味に物凄くウルサイ!)


五代目候補も居りますし看板娘もたまに居ます。
投稿日:2012年11月06日 02:07サイズ:150 x 203

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